葬儀はもともとお寺や自宅で行っていました
近年、日本の葬儀の様子がずいぶん変わってきたように思えてなりません。
私は神戸の寺で生まれて物心ついた時には、「お寺」または「自宅」で葬儀を執り行うことが多かったように記憶しております。お檀家様が亡くなられたときは昼夜を問わずお寺に連絡が入り、「葬儀社の手配」「枕経の準備」「枕団子の準備」等で喪家の親族が集まりだし、急に慌ただしくなるのが通例でした。当時、子供であった私にとって不謹慎ですが、何かワクワクするものがありました。
考えてみると、「この世を去ろうとしている人」の為に家族親族総出であの世への旅立ちの支度をし、見送らせて頂いていたように思えます。
お寺でのお葬式(1970年頃)
葬儀社がすべて決めてしまう現状
ところが昭和の終わりごろから、葬儀社の会館でそれらの全てを葬儀社が請け負い、葬儀会館で執り行われるようになりました。当然、自宅での葬儀は無くなり、寺院の活用も少なくなり、家族親族の出番も無くなり、よきアドバイザーであった住職も不在の中で準備が執り行われ、家族、親族、お寺としては楽になったのですが、気が付けば葬儀において、家族親族は「お客様」、僧侶の役割は、ただの「お経屋」さんになってしまっている様に感じられます。
一方、葬儀費用も親戚やお寺との付き合いが希薄になっているため、よきアドバイザーであった「うるさ方」がいない中で、
葬儀社主導で決められるので、喪主は葬儀社に言われるまま葬儀内容を決定せざるを得ません、その結果、高額な出費となるようです。
この状況がどんどん進みバブル期には葬儀に掛かる費用が高騰し、バブル崩壊後は、葬儀内容はどうであれできるだけ安い方がいい、ついには遺体の火葬処理だけしてもらえばそれでよし、ということになったのではないでしょうか?
形だけの儀式なら不要
私個人的には、
形だけの儀式であるならば、葬儀も戒名も読経も不要だと考えます。
葬儀は大事な人の死を介して、我々生きている人間が、死者に感謝し今後いかに生きていくべきかを考える重要な機会であると思います。それには、現在受け継がれている風俗、習慣を基盤にして今後は葬儀の執り行い方を考えていかねばならないと考えます。
そして「読経は何のために行われてきたのか?」を考え、ただ文章を棒読みするのではなく、経典の内容を人間が実行していくことが大事だと考えます。
そうすれば、
決まった形による葬儀ではなく「こういう風に送ってあげたい」という気持ちをお聞かせいただければ、色々なスタイルの送り方が実現できるのではないでしょうか?
本泉寺は「こういう風に送ってあげたい」という気持ちを次の世代に持っていただくための葬儀を皆様と一緒に考えていきます。
これが本泉寺の葬儀に対する哲学です。